一休さんの智慧

平成27年も暮が迫り、年末年始の準備に心だけが慌ただしくなってきました。
大掃除に年賀状の準備など、何から手を付ければいいのか右往左往するばかりですが、放っておいても正月は向こうからやって来ます。
どうせなら『大丈夫、何とかなる』と懐を深くして年末を迎えるのも良いかもしれません。
近年長弓寺は12月31日から正月三箇日にかけて多くの参拝者で賑わいを見せています。
特にお寺の梵鐘は誰でも撞いていただけるので長蛇の列が出来るようになりました。
大晦日に除夜の鐘を108回撞くのは人に備わった百八つの煩悩を滅するためと言われています。
当寺では12月31日の23時45分から撞き始め、夜が明けるまで鐘の音は境内に響き渡っています。
なので総数は108回どころではありません。
この日ばかりは皆の煩悩を念入りに滅しています(笑)。
『“本能”濁ると“煩悩”になる』よくこの句をお寺の掲示板で見かけるのは、とても的を射た言葉遊びだからでしょう。
人が本来持つ食欲や睡眠欲などの“本能”、これ自体は幸せに生きていくため欠かせない能力です。
しかし過剰になれば、濁って“煩悩”に変化して我々を苦しめます。
食欲が過剰になれば高血圧や糖尿病の原因になります。
物欲も過剰になれば拝金主義になったり、他人の物を奪ったりしかねません。
この他にも濁点を付けた言葉遊びは沢山あります。
『口が濁ると愚痴になる』
『意志が濁ると意地になる』
『徳が濁ると毒になる』
『存在が濁るとぞんざいになる』
『福が濁るとフグになる。肝を忘れるなかれ』などなど。
これらは濁点を足す言葉遊びなので、逆からも考えてみました。
不肖ながら絞り出したものですので、それを念頭に置いて楽にお読みください。
『“坊主”から濁点取ると“ホース”になり、濁りのない仏の世界と清濁混沌としたこの世を繋ぐパイプになる』
『“地獄”の濁りを取り除く“四国”のお遍路』。
もうひとつ『人々を“往生”させるため濁りを除く努めの“和尚”』。
んー、どれも長くて不透明、“濁り”があって“ニコリ”と出来ませんね(笑)。
さて、今回はとんち話やアニメで有名な“一休さん”のモデルとなった僧侶についてご紹介いたします。
実在の一休さんは室町時代に活躍された臨済宗の禅僧、一休宗純禅師ですが、あのお茶目でユーモラスなイメージとはかけ離れた方であったと伝えられています。
例えば酒は浴びるように飲み、盲目の側女を連れたり男色を好んだり、変装して町に出たり。
仏教の戒律で禁止されている行いを悪びれることなく大胆に行う、世間から見れば非常識な人物でありました。
ある年の正月に一休禅師は墓場に行き頭蓋骨を拾ってきて、杖の先にくくり付け京の町へ繰り出しました。
そして町の商家を訪ね、出てきた人に髑髏を突き出しこう言ったのです。
「見なさいこの髑髏には昔2つの眼があった。
その眼が出てこんな髑髏になってしまった。
眼が出た、眼が出た、めでたいのう」と。
人々はこの僧侶は狂っていると思ったに違いありません。
しかし一休禅師はこの“狂い”を通して人々に諸行無常を伝えていたのだと思います。
正月をめでたいと浮かれているだけではいけない、その一年の始まりである正月だからこそしっかりと“死”を感じなさいと警句されたのです。
人は何となく生きているだけでは生きていることの素晴らしさを実感できず、そのことを見失ってしまいます。
“健康”や“平和”も同じこと。
対の概念を意識しないとそのことの大切さに気付くことが出来ないのです。
また、一休禅師の思想の根底に徹底した平等主義があったそうです。
禅師は当時、民衆が苦しい生活を強いられているにもかかわらず特権階級で贅沢に溺れる貴族や武士、宗派対立を繰り返す仏教界に対しても強い憤りを感じていました。
常に民衆と共に生き貧困や飢餓にも共にあえぎ、戒律や形式に捉われない人間味により人々からは生き仏と慕われました。
そんな禅師は遷化する間際、弟子たちがどうしても手に負えない深刻な事態に直面したらこの手紙を開けなさいという言葉を添え、一通の手紙を残されたそうです。
そこにはこう書かれていました。
『大丈夫心配するななんとかなる』。
一休さんの大いなる智慧は今でも寄り添い語りかけてくれています。

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