5月になるとカタツムリが沢山出てきます。
虫好きな私の子供は、外に行っては捕まえて虫カゴいっぱいカタツムリを集め、ニコニコしながらキャベツやニンジンの切れ端などを食べさせてあげていました。
カゴいっぱいのカタツムリは、思わず目を両ツムリしてしまうほどグロテスクな絶景ですが(笑)、子供にとっては宝物の詰まったものなのでしょう。
せっせと余りものの野菜をあげる姿には感心していましたが、ある時虫カゴをのぞいてみると、大半が殻だけになっていました。
もっと水分を与えないといけなかったようで、中身のないカタツムリを不思議そうに眺めている子供を見て何と言えば良いのか迷いました。
頑張って育てた虫が死んだことはショックかもしれません。
「この殻は小さいからお引っ越ししていったんだよ」と言って死んでしまったことを隠すべきか、本当のことを言ってあげるべきか。
迷いましたが死んでしまったことを伝え、簡単なお別れをすることにしました。
殻を土に埋めて、その上にきれいな棒を立ててお経をあげると自然と子供も手を合わせ、眉をひそめ、何やらブツブツ私の真似をしていました。
その光景を見てカタツムリから命の大切さを教えていただいた、“いのちの布施”をいただいた気がしました。
大乗仏教には『一切衆生(いっさいしゅじょう)悉有仏性(しつうぶっしょう)』という言葉があり、人間だけでなくありとあらゆる生き物には仏性を有しており、仏様になる種を持っていると考えます。
つまり人間の生命と同じく蟻や草木、ゴキブリなんかも含め、あらゆる動植物の生命を平等に見ています。
弱肉強食の世の中、強いものが弱いものを搾取すると考えるのではなく、お互いの命を布施しあっていると考えます。
熊に食べられた鮭は熊に自らの肉体、いのちを布施し、鮭は植物の命の布施をいただきます。
ではライオンなどの強者はというと?このライオンの死体もまた大地に還元され土に帰り草木の養分となり布施をおこないます。
その命のサイクルを地球では40億年前から続けてきました。
類人猿から新人類が誕生したのが700万年前であり、遥かなる祖先はそのサイクルの中に身をゆだね続けてきました。
地球の誕生から現在までを1年で表わすと1月1日に太陽系の固体粒子が集まり原始地球となりました。
海と陸が出来たのは2月9日のこと、原始生命の誕生は2月25日、魚類誕生は11月20日、新人類の誕生は12月31日の午前10時40分、イエス・キリスト様が生まれ西暦が始まったのが同日の午後11時59分46秒、、新年のカウントダウンを始める程の一瞬だそうです。
話の風呂敷が広がりすぎましたが、流れ星を見た、池の鯉が跳ねた、2度寝防止のベルがもう鳴った、ほどの一瞬だけ人類という歴史があり、その中のこれまた一瞬だけ生物の自然の摂理から離れた人類が我が物顔で地球にのさばっているようです。
まさに「お釈迦様の手のひらの悟空」なのかもしれません。
「自然を愛す」という言葉は人間様目線であまり好きでないですが、私たちは自然の一部であり自然に生かされていることを見つめなおす必要があるのではないでしょうか。
お店で買ったカブトムシが死んで動かなくなると、乾電池を探す子供がいるそうです。
子供がカタツムリを触ろうとすると、「ばい菌が沢山いるから触ったらだめ」と大声で叱りつけているお母さんがいます。
森の中でカブトムシを発見すれば電池を探すことも無いでしょうし、手を洗うことなどを教えてあげればカタツムリから感染するリスクは限りなくゼロに近づきます。
“手間”や“リスク”という足枷が重くなり、心でいのちに触れる、そんな機会までが激減してきました。
拾って育てた生き物が死んでしまったことは喜ばしいことではないかもしれませんが、カタツムリさんは子供がいのちを学ぶ“布施”をしてくれたのかもしれません。
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