また会える日まで2

お釈迦様の言葉の通り“死”は自分の傍らにはあるものの、医療の進んだ現代では何重にも厚い袋で覆い、まるで臭いものには蓋をして見て見ぬふりをするように、それを遠ざけてきました。
そして云うに及ばず、母の胎内から誕生するのは1度きりの経験であるのと同じように今生に於いて死んだ経験をされた方は決していません。
私も「死んでみてわかることが沢山あったけど、三途の川は案外浅いで」と経験談を語れれば、どれほどわかり易い事でしょう。
しかし“誕生”と“死去”というものは、自らは1度しか体験することが出来ない経験であり、それが訪れるまでは決して開示されない秘められた事なのです。
だからこそ命というものは儚く、そしてかけがいのないものだと伝えられています。
傍らの“死”を見過ごし、私たちの“生かされている命”が尊いものだと気付くことなく生活をしていると、その“生きる意味”や“生きる希望”をも失ってしまいます。
この当たり前のように聞こえることこそ、仏教が脈々と培ってきた伝えるべき心ではないでしょうか。
この度の別れは私に大切な人を失う苦しみ(愛別離苦)とともに、“その方が生きた意味”、人が“生きる意味”に正面から考え、向かい合うための種を授けて下さいました。
「なぜこんな辛い病気になってしまったのだろう」「なぜ死ななければいけなかったのだろう」仏教ではこの苦しみから救われる道の1つとして、突然の“苦”と出会うことも因縁によるものであると説かれています。
お釈迦様は「全ての物事は因縁によって成り立っている」ということを言われました。
そしてその苦をも大切にしなさいと教えられたのです。
「春という縁に触れて、硬いつぼみは花開く」という言葉があります。
きれいな花になる“因”を持った種も水や土、天候などの“縁”がなければ花咲くことはありません。
全ての成り立ちが因縁によるということは、直接的に関わり合う“因”と間接的な力で関わる“縁”の双方が結びついて働くものです。
現代の生活は科学を基盤にして成り立っています。
しかし本来科学で計れる原因は物事の成り立ちのほんの一部でしかありません。
にもかかわらず、私たちはなぜこうなったのか自分自身で納得できる直接的な理由“原因”のみを見つけようとして心をいらだたせてしまいます。
タバコを吸っていたから肺がんになる人もいれば、そうでない人もいます。
交通ルールを順守する方でも不慮の事故に巻き込まれることがあります。
自然災害で命を落とすことだってあります。
突然の苦しみに直面し、納得いく原因が見つからない時には「ご先祖さんのおこないが悪いから」などと不安に付け込むニセ占い師、ニセ霊能力者の言葉に惑わされたりするのです。
「なぜ私が死ななければいけないのだろう。
なぜ私はこんな辛い病気になってしまったのだろう」。
もし苦しみに直面した自分自身に諭すとすれば、こう伝えます。
「ほんとうに辛くて悲しいことだが、私はこのようなご縁をいただきました。
不運なこと、心苦しいことだけれど、どうかこの厳しい現実から自分を投げ出さず、このご縁を正面から受け止め、今ある命を大切に生きてまいりましょう」と。
実際、私も放り出したくなるような、目をつむりたくなるような現実の悩みがあります。
しかしわたしのこの苦悩は決して1人で背負っているのではないと思っています。
こういった苦悩を超えて前に向かい前進する姿は、ご縁を授けた仏様、そしてあの方も見て下さっていると思います。
そして1度きりの“死”の先でまた会うことが出来たら、、、、そう願って生きてまいりましょう。

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