「お兄ちゃん、ここ何の神さん?効き目教えて」。
最近よく聞かれるようになった質問です。
私は毎年1月の中旬に、昔修行をさせていただいた兵庫県宝塚市にある清荒神清澄寺へ御手伝いに伺っています。
清荒神では1月3日が過ぎてもまるでお正月が続いているかのように沢山の参詣人の方々が訪れ、火の神様、荒神さんのお札を受けになられたり御祈祷を申し込まれたりされます。
今年も受付に座っていると色んな方から様々な疑問を問われましたが、先の質問をなさる方が最近多くなってきた気がします。
「火の神様、台所の神様ですので火難、災難からもお守りいただけますよ」
と説明すると、その中には冷やかし半分で
「うち、オール電化で台所でもIH使ってるからな、火使わへんから、ええわ」
と言って意気揚々と立ち去る方もおられます。
「ほな何しに来はってんや」
と喉から出かけた言葉を呑みこむこともあります。
確かに“厄除けと言えば○○神社”“子どもを授かれば○○寺”“納骨には○○霊園”など、お寺でも神社でも宗教施設ではそれぞれの特色があります。
その影響もあって薬のような“服用説明書”を知りたくなる気持ちは分からなくもありません。
体の調子が悪くなり、病院に行ってお医者さんに診察をしてもらい、薬を処方してもらう。
こういったときに自分の現状を把握して薬の効き目、効能をしっかり理解しておくことはとても大切なことだと思います。
しかしながら神仏と薬とを同じように捉えられると心淋しい思いに駆られます。
自坊にてお堂を拝観していると、昨今の仏像ブームからペンライトを持参される参拝人の方がおられます。
特に長弓寺の本堂には防火防犯設備以外電気が通っておらず、昔と同じく灯明の灯のみで仏様に対峙していただいています。
“美術品”として仏像を拝観される方にとっては詳細に見ることも楽しみの1つなのでしょう。
そんなことからライトで照らしていいか尋ねられることがありますが、私はお断りさせていただいております。
ライトで照らすことが悪いわけではりません。
その行為を否定しているわけではありませんが時には私たち人間をも超える存在として祈りを捧げている仏様に、ライトを当てられアレコレ言われることに、正直あまりいい気分がしません。
親の顔にライトを当てられ鼻が大きい、目は小さい、服は何年代に流行したもの、なんてことを言われているのと同じような感覚かもしれません。
わたしにとっては無口ながらも時には悩みや恐れから救ってくれるような、親のような、先生のような、友達のような、自分自身の鏡のような大切な存在です。
しかしながら時代と共に、そのような“存在”に対して畏敬の念を持つことが出来なくなってきているのではないでしょうか。
残念ながら私たちは当たり前の日常が如何に素晴らしいことであるか実感することが苦手です。
目が良いうちは、見えることの素晴らしさを知ることは出来ないのです。
だが何かに祈りを持つことはそれを実感する、また命の素晴らしさを実感するきっかけになるのだと思います。
限りのある不完全な存在であるが故に、大いなる“存在”に対して手を合わせるのではないでしょうか。
これは私の恩師が体験された話ですが、そのような“存在”が1人の男性の生きていく杖になった話です。
還暦を迎えたある男性がいました。
大学教授であったその方は信仰というものに全く興味がなく、古くからの友人である僧侶の友達には
「俺は無宗教者だ。死んでも代々の墓には入らない。骨はその辺の土に撒くように家族には伝えてある」
と話していました。
とある冬の雪の降りつもる寒い日に、大学教授から友人の僧侶に連絡があり、
「突然だが○○霊園まで来てくれないか」
とのこと。
その場に行き案内されたのはその教授と同じ名字が彫られた墓石の前でした。
教授は
「実は最近妻を亡くしてな、今日が四十九日で納骨しようと思うんだが、今まで頼っていたお寺がなくて、申し訳ないのだがお経をあげてもらえないか」
と言いました。
雪の降る中その方は
「悪いな、こんな寒い日に。こうなってもわしはお前に辛い思いさせているな。1人でも何とかやっていけてるぞ」
と話しかけながら墓の上に積もる雪を払いながら涙していました。
最後に
「来てくれて妻も喜んでいるよ。ありがとう」
と友人に言ったそうです。
コメント