あけましておめでとうございます。
平成25年、癸・巳歳の新しい年を迎えました。
大寒のみぎり、みなさまいかがお過ごしでしょうか。
今年もいち僧侶の日常の疑問や思いを綴った巧まざる日記、悠悠日記に気軽に触れていただければ幸いです。
睦月、私にとっては34回目の到来ですが何度訪れても新鮮なのがこの1月。
なかでもお正月は沢山の方々がおまいりに来られる特別な日です。
学生の頃は地元の友人が大晦日から遊びに来てくれ、そのあと恒例のお祭りのような新年会があり愉しい思い出が詰まっていますが、僧侶になってからは真逆の心もちに駆られてしまいます。
特に年の瀬となると正月準備に掃除にと、様々な責務に追われ息つく暇もなし。
年が変わればあとは流れに身を委ねるのみ。
正月お護摩焚きに他山寺院への出仕、そして円生院が最も賑わう1月28日の初不動、二月初めの節分まで。
ここまで流れ着いたころ、ようやくひといき着けます。
私のもとには決してやって来ない寝正月ですが、たとえ忙しくとも明鏡止水の如く、心は澄みきり謙虚な気持ちで日々精進できる、そんな1年の幕開けにしたいものです。
正月と言えばおせち料理がつきものです。
これはもともとその年の五穀豊穣を司る歳神様へのお供えものだそうですが、現在は縁起を担ぐ意味合いが強く表れています。
1年中まめに働き続けることができるよう“黒豆”、子孫繁栄を願い“数の子”など、どの料理にも意味が込められています。
私はその中でも財を得る“栗きんとん”が大好物でした。
というより幼いころは、煮しめ中心のおせち料理の味がどうも好きになれず、様々な品目の中に唯一、光り輝く眩い彼に虜になっていました。
スプーンですくって舌の上に運ぶと、砂糖とさつま芋のダブルの濃厚な甘みが口いっぱいに広がり、しかも運が良ければ栗まで連れ添い噛めば3重の甘みに。
目を閉じて食せば頭の中に蝶々が飛び回るかの如く幸せいっぱいになっていました。
茶碗に盛ってそればかり食べては怒られていたのを覚えています。
さて、仏道においては食べ物を好きだの嫌いだの蝶々が飛ぶだの言ってはいけません。
“雑阿含経”というお経の中に、『食物を見て生じるのは「食べたい」という喜びとむさぼりの心であり、これは人生の苦の原因となる』と説かれています。
修行道場では食事作法(じきじさほう)というものを行います。
食事の前に皆で手を合わせ経を読み、自分の口に運ぶ前に茶碗の米を仏様にお供えをします。
そして10分程度の作法が終わって初めて自らがいただくことが出来るのです。
そのお経の中“受食五観”には『功の多少を計り、彼の来処を量れ』という一文があります。
意訳すると『食物がこの膳に来るまでに多くの苦労がかかっている。この食物に如何ほどの労力、手間がかかっているのかよく観じ、またこの食物がどこからどのようにして来たのかを観じるべきである』となります。
食欲を無にすることは難しいですが、一粒の米の中にも宿る仏性に感謝することは可能です。
私たちは自分が生きるため、この命をつなぐために縁あった命をたくさんいただいています。
食事の前に手を合わせて「いただきます」、済めば「ごちそうさまでした」。
当たり前のことです。
しかし仏教ではこの当たり前のことに日々感謝することが大切なことと説かれているのです。
年間で1,000回余りのこの言葉ではありますが、一日三回一年千回、家族や自然の恵みへ感謝の心を込めたいものです。
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