この時のために

「自分は何のためにこの世に生を受けたのだろう」
こんなことを考えたことあるでしょうか。
ふとした瞬間に漠然とではあるが今こうして心臓が鼓動を打つこと、生きていることの意味を考えることがあります。
そして一生のうちに
「私はこの時のために生まれてきた」
と実感することが出来るのかを考えることがあります。
今年の1月下旬に私たちは第2子の女の子を授かりました。
もうすぐ4歳になる1人目の息子にとっては初めての兄弟です。
産婦人科での前回の出産に際して立ち合いはしませんでした。
扉越しに妻の苦しむ声を聞きながらその時を待つばかりでしたが、今回は助産院での御産となったので、畳の部屋で一緒にその時を過ごしました。
前回の出産もそうでしたが、立会いを行うか否かについては妻に一任をしていました。
ただ4歳間近の長男には命の尊厳を感じることのできるいい機会なので、本人が嫌がらなければその場に居てもらおうと妻と話していました。
陣痛が始まってしばらくしてから助産院に行き診察が終わるとすぐさま分娩室に入り、その後2時間程で産まれました。
分娩室では私が膝枕をするような状態で手を握り、陣痛と同時に妻の体を前に倒していきみの手助けをさせてもらいました。
友達との会話でも出産時の立ち合いは是か非か、意見が分かれるところです。
しかし私にとっては時間や感覚が凝縮したような、命の縮図を感じるような素晴らしい経験でした。
そのような出産を目の当たりにして、ここにこうして誕生した生命は単なる偶然の成り行き任せではなく、生まれるべくして生まれてきてくれた気がします。
「生まれてくれてありがとう」
これが初めてかけた言葉だったように記憶しています。
息子はやはり気になるようで、休憩室と分娩室を行ったり来たりしてしましたが、お母さんの頑張っている姿を見て、そして生れたばかりの妹を抱いて何かを感じ取ってくれたことだと思います。
わたしは今回の出産の後に妻に聞いてみたいことがありました。
それは1年近く自分のお腹の中で成長し、大変な苦労の末に産まれた子を最初に抱いた時の気持ちです。
陣痛は男性が経験すると気を失ってしまうと聞いたことがあります。
そんな痛みを耐え、新たな命と対面した時にはきっと
「私はこの時のためにうまれてきた」
と深く感じているのではないかと思ったからです。
毎年のように経験することではないですし、男性にとっては理解できないことも多くあるから時間をかけてその感覚を伝えてもらおうと思い、御産の数日後尋ねると、意外な答えがました。
「最初に赤ちゃんを抱いた時、どんな気持だった?」
と聞くと、
「う~ん~、正直あまり覚えてないねん」。
想定外の答えに固まってしまいました。
こちらが勝手に思い描いていたことと現実は随分と違っていたのです。
妻曰く、はあ出産の痛みやプレッシャーなどから解放されて、うつろになってしまうそうです。
だが話の中で
「不思議と御産後しばらくすると、あの時の不安や痛みは忘れてしまって、ぼんやりと子どもを抱いた時にすごく幸せだったことだけ覚えてるんよ。痛みまで鮮明に記憶していたら、また子どもを産みたいと思いづらいからじゃないかな」
と教えてもらい、納得したのと同時に自分の浅い考えに赤面する思いでした。
人生の中で心から生き甲斐を感じることなど、なかなか出来ることではありません。
出産時であっても同じだと思いました。
「この時のために生きてきたんだ」
と思い、感じること、それはその時が過ぎ去ってから“じわっ”と思い、感じるものかもしれません。
むかし、親子喧嘩の時に
「誰も産んでくれなんて頼んでない、勝手に産みやがって」
という言葉を吐いたことがあります。
いずれの時にか私も同じことを言われるかもしれません。
しかしそんな時にこの日のこの想いを伝えることが出来れば、いずれは同じように“じわっ”と感じてもらえるのかもしれません。
そんなことを考えていたら
「親の意見と冷酒は後になって効く」
という諺を思い出しました。

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