3年目の地

いわゆる“価値観”というものは時間の経過によって随分と変化するものです。
以前はコインの表裏のように、“生きること”と“死ぬこと”は決して相交じり合わないものであると思っていました。
しかし地球の表面は陸地と水面で覆われているように、“生”と“死”が共存しているのが人生ではないのかと考えが変化してきました。
30代も半ばを迎えたからか、子どもが生まれたからか、僧侶であるからか、はたまた震災によるものか。
いずれにせよ、これは決してネガティブな感覚ではなく、笑っている時も落ち込んでいる時もそう思うのです。
東日本大震災から早くも3年が経過いたしました。
1年目の一周忌、2年目の三回忌は真言宗青年教師の方々15人程の団体で大川小学校など被災各地を回り法要を勤めさせていただきました。
今年の3月11日はというと、先月縁つながりに投稿いただいた船越さんは宮城県中部の太平洋沿岸に位置する町、七ヶ浜によくボランティアで行っていることを聞いていたので、単身赴き海沿いでお勤めをしてまいりました。
前もってボランティアセンターに問い合わせると10日、11日の両日はお休み。
詳しく聞くと「その日は皆それぞれの時間を大切に過ごされると思います」と。
旅館を取りリュックに僧侶の法衣を詰め、網代笠を持ち10日の朝出発。
仙台空港から乗り継ぎ昼ごろに多賀城駅というところまで行き、てくてく歩いて浜辺沿いまで。
海が見えると驚いたことがありました。
それは去年まで有った瓦礫の山など、あちこちにあった震災の爪痕がほとんど無くなっていたのです。
空港に到着した時から何となく違いがありましたが、沿岸に出ると一目瞭然でした。
それを探せばタイルのはがれた道や内陸側に傾いている塩害防備保安林など有りますが、“探せば”という程度にまで片付けられていました。
身勝手なものですが、お見舞いに病院へ足を運んだが、すでに退院されていたかのような感覚でしょうか。
自分の間の悪さにまごついてしまうような、そんな気になってしまいました。
いま震災遺構を残すべきか否かでそれぞれの被災地で意見が分かれているのも肯けるような気がします。
そして海岸の一部では以前よりも高く強固になった防波堤建設も始まっており、ひとけの無い大道路を大型重機だけが行ったり来たり忙しなく走り回っているのは去年と同じですが、だんだん網代笠が取り残される景色へと変貌してきているようでした。
浜辺沿いを南西部から北上しながら歩いていると、ちらほら雪が舞い散り始め、そういえば震災直後に瓦礫の山に雪が積もっていたことを思い出しました。
「どうもご苦労様です」、との暖かい声をすれ違う人々にいただきながら進んでいると釣り具屋さんの「釣キチ」という看板と共に「2Fコーヒーショップ、どなたでもご自由に」の文字が目に入ってきました。
一息つきたいなと思っていたところなので上がらせていただき、おいしいコーヒーをいただきながらご主人から3年前の出来事をお聞きしました。
2階のその部屋はガラス張りで、弧を描いた穏やかな水平線の絶景を眺めながら14時46分以降の話を聞いていると、その海の変貌ぶりが俄かには信じ難くなるほどでした。
サイレンが鳴り車で避難していると、いつの間にか波にさらわれ、助手席にあった工具で窓ガラスを破り脱出したそうです。
一面海水であったので近くの工場から流れ出たスチロール版で25メートルほど泳ぎ、浸水していない工場の事務所に避難しました。
海水につかった時冷たさは全く感じなかったと。

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