<まっ暗闇の中>「ドンドン、バターン、ドンドン」「あー、時計見てみ。そろそろ鬼さん来る時間やで」「……………」午後9時、我が家の寝室で繰り広げられている会話です。
私には2歳半になる男の子がいますが半年前からでしょうか、就寝の時間になってもなかなか寝付かなくなりました。
それどころか余った体力を全て使い果たすかのように暗闇の中、転げまわったり飛び跳ねたりして暴れ回る始末です。
叱っても寝たふりをしてみても、いったん火がついた子どもの遊び心を消すことは難しく、エネルギーが切れるまで待つしかありませんでした。
成す術もなく困り果てていた梅雨時のある晩に、家族3人で蛍を見に行きました。
そこは奈良市の有名なお寺の近くにある場所で、闇夜の中着いた頃には家族連れやカップルで賑わっていました。
私たちも一時の光の饗宴を楽しみ、その後街灯がともる参道を歩いていると、子どもが何かを見つけたようでした。
彼の視線の先には鬼瓦があり、ママの後ろに身を潜めながらも気になるようでチラチラとのぞき見ていました。
「あれ?あれは鬼さんやで。
恐い顔をしているやろ。
言うことを聞かんかったらな、鬼さんやってくんねんで」その次の日から我が家では、あの鬼さんが早寝の手助けをしてくれています。
今年の8月は例年以上の猛暑日が続き、お盆の棚行参りは暑さとの戦いでした。
こまめに取る水分は毎度すぐに汗に変わり、帰って洗濯籠に入れるシャツが搾れるほどに重くなっていました。
そんな過酷な夏を迎えるようになってしまった日本ではありますが、それでも変わらず壇家さん、里帰りをしている子ども達と一緒に、ご先祖さまに対しお勤めが出来たことは有り難いことでありました。
私はよく子供たちのいる席で親御さんに対し「手を合わせる習慣をつけてあげて下さいね。
子どもたちは自然と命の尊さを感じることが出来るので」と申します。
すると皆さん納得して聞いて下さいます。
今年のお盆も何軒もの家で伝えました。
いつからそのようにお話するようになったかは覚えていません。
特段の理由があったからではありません。
“何となくそうではないかな”と気付いたから、これがその話をするきっかけだったと思います。
しかし改めてそのことに疑問符をつけると、言葉では説明が難しいことに棚行参り、移動の車中で気付きました。
子ども達にとって、何故手を合わせることが大切なのか。
何故祈ることが大切なのか。
何故命の尊さを感じることが出来るのか。
しみ入る蝉の声を感じる間もない忙中、その難題解決の手助けをしてくれたのが例の“鬼さん”でした。
私は「鬼さん来る時間やで」という魔法の言葉に言うことを聞く子どもを可愛く思っていました。
しかし彼の頭の中では“可愛い”どころの話では無いはずです。
息子は9時を過ぎれば鬼瓦が歩き出し、扉1枚向こうでは言うことを聞かない子供を探しまわっている絵を描いているはずです。
丁度それは東北のナマハゲのようなものでしょうか。
子どもの想像力を想像すると、少しかわいそうな気もしますが、合理的な大人には決して真似できない能力であり、まだ言葉もおぼつかない子供が鬼さんに思いを馳せる、この想像力には感服のほかありません。
お盆を迎え、手を合わせた時に「帰ってきてくださったご先祖様は去年より大きくなった僕、私のことを見て喜んでくれているかな」「キュウリのお馬さん、ナスの牛さんに上手に乗ってくれるかな」「いつも見守ってくれていてありがとう」と、ご先祖様に思いを馳せる。
子どもたちは大人より難なく出来るはずです。
そして人の身になって考えること、人の役に立つこと、人の幸せを願うことは、この“思いを馳せる”ことの延長線上にあることです。
祈り、そして育まれることの出来るこの目には見えないものを感じる力は命の尊さを感じることに繋がるものだと思います。
8月中旬の新聞記事に、被災地として3度目のお盆を迎える親子が手を合わせる写真が掲載されていました。
私たちはそれを目にしただけで胸中を推し量ることが出来ます。
しかし手を合わせた事がない、祈ることをしたことがない子どもたちはその写真を見てどう思うのでしょうか。
何かそこから感じることが出来るのでしょうか。
人偏に思うと書く“偲ぶ”という言葉を私は大切にしています。
「故郷を偲ぶ」「故人を偲ぶ」「お人柄が偲ばれる」「先人の苦労を偲ぶ」。
使い方は色々有るでしょうが、その先には必ず感謝が訪れます。
「息子の中に鬼さんがいなくなる年頃になれば、私が鬼瓦を偲ぶことになるやろう」今年の夏はそんなことに思いを馳せ、子ども達と手を合わせていました。
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