先日ラジオを聞いているとこんな喩え話が耳に入ってきました。
『2人でボートに乗り込み岸から出発。しばらくすると底に穴が空いており、水が入ってきていることに気付く。
それをかき出しながらボートも目的地に漕がねばならない。そんな状況下に直面した時に誰しも思うものです「陸地の方が良かったな~」と』
これ、何を説明しているか分かるでしょうか??“結婚生活”の例えです。
あまりにも的を得ているので、思わず固唾を飲みました。
『結婚し夫婦となるということは日常になる。日常とは日々の生活である。新婚当初はお互いに覆い隠せているがそれが剥がれてくれば2人のボートに大量の水が入ってくる。穴は広がるばかりである。2人で水を一生懸命かき出す旅。自分が汗だくになりながら水を出している時に横を見れば寝っ転がってあくびをかいている。陸地で語っていた目的地の事なんてなんて何処へ行ったのか?そんな水かきの日常が当たり前になると、うっぷんが腹の中に溜まり苦しむ。元々違う価値観を持った者同士が同じボートに乗り込むのだから、こんな苦しみは日常よくある話、それが“結婚”なんです』
聞いている間に耳を塞いで「もうやめて〜」って、大声で叫びたくなりました(笑)。
一部に焦点を当てた話ですが、この部分に心当たりのある方は共感出来る喩えじゃないでしょうか。
最近私もこんなことがありました。
夕方家に帰り、何気に背負っていたカバンをリビングの机の上に置いて荷物の整理をしていると怪訝な顔つきをしている妻に気付いたので
「とうしたん?」
と尋ねると
「前も言ったけど、食事をする机の上にカバンの置かんといてくれる?」
と言われました。
はて?いつそんなこと言われたかな?と思いながら、こちらも負けじと怪訝な顔をしていると、彼女はこう続けました。
「カバンは色々なところに置くでしょ?食卓の上に靴を履いた子供が立ってたら叱るでしょ?だから止めてほしいの」
僕的にはカバンは携帯電話や本と同じ扱い、机に置くことに何の抵抗もありませんでしたが、彼女の中のカバンは靴を履いていたんです。
そう考えてみると納得できました。
その後色々な人にカバンの立ち位置を聞いてみましたが妻が圧倒的多数派でした。
共に歩むことを誓いあったとはいえ所詮は他人同士、だからこそ気遣い、心遣い、思いやりが必要なのです。
夫婦生活を楽しく営むには“親しき仲にも礼儀有り”の最上級を心掛けないといけないと最近つくづく思います。
しかし“靴を履いたカバン”のように、価値観の違いからボートに大小様々な穴が開く原因が転がっているものです。
ついカッとなり、怒りがこみ上げることは日常的なものです。
ではその苦しみから脱するためには?
仏教の始祖であるお釈迦さんは
「怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの止むことがない。怨みを捨ててこそやむ。これは永遠の真理である」
と説いておられ怨みや怒りは煩悩であり、さらに穴をあける原因になるとしています。
なぜ“怨み、怒り”というものが生じてしまうかというと、その原因は“とらわれ”です。
例えば先ほどのように「あんなことを言われた」と心の刺(外なるとらわれ)が刺さっていると、そこから怨みが生じます。
また「自分が一番である」という自己愛(内なるとらわれ)から自分が正しい、それに賛同しないのは許せない、といった怒りが生じます。
“怨み、怒り”からの克服は原因となる“内外のとらわれ”を無くすことです。
その為には強い自己愛を見つめ、それを切り離せるように自己制御出来ないといけません。
怒りが起これば自分を見つめる。
このことを習慣化出来れば少しずつ“煩悩”という荷を下ろせ、心が軽くなっていきます。
日常にこそ、仏教修行の種は転がっています。
“靴を履いたカバン”は僕に、ちょっとした智慧を持ってきてくれたようです。
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