寺子屋ってなに?1

明治6年に来日したイギリスの日本研究家バジル・ホール・チェンバレンの著書に
「日本の子どもは善良であり、礼儀正しく、しかものびのびしている。日本は子どもの天国である」
と記されています。
16世紀に来日したポルトガル出身の宣教師ルイス・フロイスも『日欧文化比較』のなかで
「われわれの子どもはその立居振舞に落ち着きがなく優雅を重んじない。日本の子どもはその点、非常に完全で、全く称賛に値する」。
また子育ての比較においては
「ヨーロッパでは幼児を眠らせるために揺りかごを使い、歩くことを教えこむために小さな車を使う。日本人はこうしたものを何も使わない。ただ自然の与える援助を使うだけである」
と当時の日本文化を称えています。
過去をひも解き過去に学ぶと、現代の社会が抱える諸問題の解決手段の糸口が見つかります。
先に述べたように海外との文化比較において、過去に日本の子ども達が称賛された時代がありました。
それは江戸時代です。
その理由の一端を担うことになったのはお寺でありました。
この新聞には「寺子屋」という名前がついています。
なぜこの名を付けたかというと、いつかはこの名前にふさわしい場所に、いつかはそう呼ばれていたようなお寺にしたい、という私なりの夢が詰まっているからです。
今回は、一時代の重要な役割を担っていた「寺子屋」とはどういったものであったのかをお話しさせていただきます。
寺子屋の原形が現れたのは中世、足利時代の頃だそうです。
当時の権力を握る武将の子どもは寺子として一時期を寺院で過ごし、人の上に立つための人間の道を学んでいました。
しかし日本において指導者を養成することは支配者と被支配者といった2極化構造を形作ることではなく、云わば「一家の主たるものが持つべき教育」のような、家族形態をそのまま拡大させたるための教育がなされていたようです。
そのような寺の役割が引き継がれ、江戸時代半ば頃になると、いよいよ「寺子屋」と呼ばれる教育施設が登場し、この場に子どもを通わせることが習慣化していきました。
ここで驚くべきことは、このような施設がまったく自然発生的におこり発展していったということです。
庶民が自らの必要性と意欲によって自らの手で形作り、幕末期には全国で数万は存在していました。
つまり全国の寺院の大多数が、今でいうところの学校の役割を果たし地域貢献を果たしていた事になります。
では、庶民の必要性とは一体何であったのでしょう。
それは商業活動が江戸を中心として発展を遂げる中で、情報伝達能力が不可欠となってきたことが挙げられます。
全国的な商業網が機能するうえでは生産者や顧客、同業者同士の情報の一元化の為、字の読み書きは必須となってきました。
これは農業など情報社会以前に形成された産業も、その例外をみることはありませんでした。
例えば農業の心得や衣食住にわたる生活心得を記した『百姓ぶくろ』には
「百姓といえども、今の時世にしたがひ、おのおの分限に応じ、手を習ひ、学問といふことを人に聞きて心を正し……」とあります。
こうした庶民の生活にまで要求された言語認識力が高まるにつれ、学習熱に応じるための必要性が寺子屋の普及につながったのです。
寺子屋では習字が主な教育内容でした。
“師匠”と呼ばれた先生の手本が個別に渡され、紙が真っ黒になるまで反復練習をして覚える。
間違いには朱を加え、読み書き以外にも文章内容の問答をして年齢や性格、家庭の職など1人1人に応じた教育がなされました。
ここは自然発生した民間の教育機関であったので、その他にもイロハ、数学、諸証文、など、また女性の為にお茶、お花などバラエティーに富み、時代、地域により多種多様でありました。
このコミュニティーの1つの特徴として勉学だけではなく人格の向上を促すシステムも内包していました。
例えば年長の兄弟子は年少の子どもに墨のすり方や筆の持ち方や姿勢など、自分が教わったことを受け渡し、生徒自身も指導者としての補助役を担うことでその習熟やコミュニケーション能力の向上、また子ども同士の繋がりも強めていったのです。

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