はじめまして、神戸市須磨区にあります須磨寺の副住職をしております小池陽人と申します。この度、憧れである宥亮さんの「寺子屋新聞」に寄稿させていただきますこと、光栄であり感謝しております。宥亮さんは、私が二年間、修行をさせて頂いた宝塚の清荒神清澄寺の「天堂番」(和上様のお勤めのしつらえ荘厳を担う役)の二代前の先輩であり、後輩の私をいつも気にかけてくださっています。  私は、東京都八王子市で高校卒業まで育ちました。その後、奈良県立大学に進学し、「地域創造学部」という学部で主にまちづくりについて勉強しました。都市集中型の社会である日本は、人口が地方から都市へと流れ、集落の存続そのものが危機に瀕している限界集落と呼ばれる村が増えています。一方、都市では、快適で便利な生活を享受できるようになった反面、地域の中で人と人との繋がりが希薄になり、様々な問題が出てきています。老人の孤独死なども深刻な問題の一つです。都市では、無人島で一人ぼっちという孤独とは違う、人が大勢いる中で、ある種異様な孤独感を抱えている人が少なくありません。地方でも都市でも、形は違いますが、人と人との繋がりが薄くなってきているということでは共通しています。それは、現代の多くの社会問題と深く繋がっているように思えます。いかにして地域コミュニティ(つながりの場)を作っていけるのか、それが大学時代の私の研究テーマでした。そして、その研究を通して卒業後も地域コミュニティにかかわる仕事をしていきたいと思うようになりました。
大学四年の時に、母の実家である須磨寺で僧侶の道に進むのか、就職するのかで、迷い悩みました。そんな時に、母から「仏教がんばれ」という本を渡されました。本には何名かのお坊さんの活動が紹介されていました。読み進めていくと驚きの連続でした。お寺を地域に開放し、様々な活動を通じて地域の中でお寺がコミュニティの中心となっている姿が紹介されていたのです。それまでのお寺やお坊さんのイメージとは全く違うものでした。そもそも日本のお寺は昔から地域の人々が集まり人々のよりどころとなっていました。そしてお坊さんは、宗教活動だけでなく人々の為にあらゆる仕事を担っていたことから「十職(じゅうしょく)」と呼ばれたそうです。そのことを知って、お寺やお坊さんには無限の可能性があると思い、僧侶になりたいと強く思いました。
大学卒業と同時に醍醐寺の修行道場である伝法学院に入山しました。漠然とした大きな夢をもって修行道場に入った私でしたが、その夢もどこかへ消えてしまうほど修行は厳しいものでした。修行生活によって自分の未熟さを悉く思い知らされました。
最初慣れるまで大変だったことは、あらゆる所作を丁寧に、そして静かに行わねばならないということです。雪駄を下駄箱から出して床に置く時も音がすると怒られます。障子や襖を閉める時も音をたててはいけません。廊下は静かに歩かなければいけません。もっと驚いたのは食事です。食べる時、一切の音を出してはいけません。器やお箸を置くときは、少しの音もでないよう全神経を手に集中します。すべて食べ終わった後は、器にお茶を入れて、沢庵で器についた米粒などをこすり取ります。最後沢庵を食べるのですが、音をたてて食べていると「うるさい!」と叱られます。このように最初は何をしても怒鳴られ、怒られ、「もう耐えられない」と泣きたくなるような日々でした。食べたいものを食べられる、笑いたいときに笑える、会いたい人に会える。今まで当たり前と思っていたことが、当たり前ではなく、有難いことなのだと深く感じました。最初の一週間が今まで感じたことのないほど長く感じたことを今も覚えています。
数か月たつと自分の中に変化が起きてきました。「嫌だな」「しんどいな」「めんどくさいな」という感情が段々と無くなっていきました。朝四時半に起きて滝壺に水行をしに行きます。戻ってきてから仏教書を読み、六時から勤行で一時間読経します。終われば朝食をとり、すぐに別行という掃除が一時間半あります。九時からの授業までの短い時間で、自分の部屋の掃除や洗濯をします。授業は四時まであり、その後はお堂閉め、風呂、夕方の勤行、夕食と続きます。夕食後は、写経などをして、あっという間に就寝時間の九時になります。起きてから寝るまで、すべての行動を丁寧に行うことが求められます。修行中は、心の内の悩みなどは無視されます。ひたすらにすべきことを考え実践し続けるのです。「外相整えば内相自ずから熟す」という言葉があります。外相は外見、外からの見た目を言います。内相は心の内、心理状態をさします。心の内よりも、とにかく外見、行動などを重視すること。そうすれば自然と心は整っていくという意味の言葉です。まさに修行僧の生活は、「外相」を重視した生活といえます。「しんどいな」「めんどくださいな」という感情が起こる前に、あるいは起こったとしても、それを無視して行動するのです。最初あれほど長く感じた一日は、いつしかあっという間に過ぎていきました。朝から晩まで、勤勉かつ簡素で質素な生活をし続けて、心が邪悪になるはずがありません。目の前のことに集中している時、心の悩みは薄れているはずです。修行生活だけでなく、これは実生活にも言えることです。生きていれば誰しも悩みを持ちます。悩みというのは、考えれば考えるほど深みにはまるという特性を持っています。悩みを抱えた時こそ、普段の一つ一つの行動に目を向けることが大切です。洗濯をする、掃除をする、挨拶をする。その一つ一つを大切にすること。心が荒みながら掃除をしてもいいのです。掃除をしたということが大事なのです。どのような気持ちだったか、それは全く問題ではありません。感情本位ではなく、目的本位であることが大切です。悩みを頭の中でこねくり回すことはやめ、まず自分がすべきこと、できることから取り組んでいくことが大切なのだということを修行道場の生活で学びました。
修行道場では、茶道の授業があるのですが、修行道場を卒業する前日に茶道の先生が、一年間頑張った御褒美ということで我々修行僧をお茶席に招き、お接待してくださいました。そのお茶席の掛け軸に「花弄」という書が掛っていました。先生は、「弄花香満衣」という言葉からとっていると、その言葉の説明をして下さいました。『お花見の季節にお接待で忙しくしている人がいます。その人が家に帰り、衣を直す時に、着ていた衣に花のいい香りがしみ込んでいることに気付きました。その人は、何も衣に花の香りをつけようと思って働いていたわけではありません。一生懸命にお接待していた結果、自分の気付かないうちに衣に花の香りがついたのです。結果を求めず、目の前にあることに対して全力を注ぐことで、気付かないうちに素晴らしいものを自分の中に取り込んでいることをこの話は教えてくれています。君たちも毎日一生懸命修行をしてきて、自分がどれだけ成長できたか、今はわからないと思う。でもこの話にあるように、きっと気付かないうちに素晴らしいものを自分の中に取り入れてきたのだと思います。これからも一日一日を懸命に生きる、その心を忘れないでください。』と話して下さいました。今でも私の心に残る大切な言葉です。
私たちは時に、結果ばかりを求めてしまうことがあります。そして結果がでないと焦り、苛立ち悩み苦しみます。しかし、仏教は一時の華々しい結果ではなく、日々の積み重ねこそが大切であるという教えです。
「人々の繋がりの場となり、拠り所となるようなお寺」という私の夢を実現するには、まだまだ遠い道のりですが、今、自分にできることを結果を求めずに実践していくことが大切なのだと考えています。そして、その実践の全ったからんことを祈って、拝んでいきたいと思います。