平成25年の2月に奈良県桜井市にある安倍文殊院のご本尊・文殊菩薩様の国宝指定が決まりました。鎌倉時代の仏師・快慶の作で国内最大級の大きさをほこります。鎌倉時代の律僧、忍性さんは若き頃に文殊信仰に目覚められて足しげく当寺に来山されたそうです。今年は忍性さん生誕800年記念の年でもありますので、多くの人々が同じく文殊菩薩様とのご縁を結んでおられます。安倍文殊院で執事を仰せつかっている私も、ここに至るまでを思うと何か不思議な縁を感じます。振り返ってみると、私の人生もたえなる出会いに支えられたものでした。この度は私が今までに結んできた“生きる縁”をご紹介させていただきます。
私は1944年12月、敗戦の色濃くなった頃に福井市で4人兄弟の末っ子として生まれました。生後半年後には福井に大空襲があり、その時母は4人の子どもを引き連れて逃げまどい、川岸に身を潜めて命を繋いだそうです。父は私を母のおなかに残して出征し帰りませんでした。「南洋諸島で玉砕」紙切れ一枚の通知であったそうです。焼け野原となった街で母は日雇いの仕事に就き家計を支えます。6つ上の姉は赤ん坊の私を背負い小学校に通いました。母はあまりの不如意に思いつめ、子ども4人と手をつなぎ鉄橋の下の川の中に入っていき、姉の「いやー」という悲鳴で我に返ったそうです。そうした苦労を重ねながらにも肩を寄せ合う家族の暮らしは、長く続きませんでした。
3年後に大地震が福井を襲い、3700人の犠牲者を出します。母は揺れが来て逃げ遅れた私を助ける為に家に飛んで戻り、私を外へ放りだした瞬間に柱の下敷きとなりました。そして病院へ運ばれましたが息を引きとりました。4人の兄弟は父と母を失い孤児となって、それぞれ別々の親戚の家に預けられたのです。
私が預けられたのは福井市内の遠縁にあたる尾崎家であり、記憶がはっきり残っているのはこの頃からです。実の両親がいないのは知っていましたが、詳しいことは聞かされず実の兄弟の存在もその時は知りませんでした。しかし育ての両親は12歳上の“兄”と同じように扱ってくれ、本当に感謝しています。
戦争や震災の爪痕がひどかった福井の街中には復興に使う丸くて大きい下水管コンクリートがあちこちに置いてあり、幼い私にとってそこが遊び場でした。そんなところで遊んでいると、たまに杖をついたおばあちゃんがやって来て「きよし」(本名)と私を呼び止め飴玉を渡してくれました。誰なのかはわかりませんでしたが小学校に入るまで、年に数回それは続きました。
小学校に入ると提出する書類の中に“家族”の欄があり、続柄の記載に悩みました。私(東)は養子ではなかったので育ての両親(尾崎)と名字が違い続柄もありません。先生に聞いたところ「同居人」と書きなさいと言われ、子どもながらに他の友だちとの違いが辛かった、何か悔しかったのを覚えています。早く“同居人”を外そう、早く独り立ちしようといつも内心で思っていました。
中学2年の頃、思春期に入ると今までの境遇が友達と違うことから「自分は一体何者なんだろうか、人生って一体何だろうか」と哲学めいたことをいつも考えていました。ある日曜日の朝、実の母の夢を見ました。起きた時は夢の内容までは覚えていませんが、確かにあれはお母さんやって。以前に母の墓があると育ての親に聞いていましたので、その場所を尋ねました。自転車に飛び乗り南居という集落に向かい、母の旧姓“横山家”を見つけました。家の中から杖のついたおばあちゃんが出てきてハッとしました。小さいころに飴玉をくれた、あの人だったのです。「きよしです。僕きよしです」興奮して話すとおばあちゃんはじっと私の目を見て絞り出すように言いました。「きよしか、よう生きとったな」。それは私の母の母、お婆ちゃんだったのです。

私が幼いころ、祖母が飴玉をあげるだけで名乗りもしなかったのは親せきに預けた後ろめたさがあったからでしょう。その心中を考えると胸が熱くなります。そしてこの祖母との出会いは兄弟との再会へとつながったのです。私には3人の兄弟がいること、いま皆が大阪の遠縁の家で一緒に暮らしている経緯を知りました。両親が亡くなったとき、最初は4人兄弟のうち長男1人が子どものいなかった大阪の家に引き取られたのですが、ある時から食事中に箸を置いてご飯を半分しか食べなくなりました。「こんないらんから姉や弟に食べさせたい」といい続けて聞き入れなかった。それで結局兄弟3人を大阪で育てるようになったそうです。
家族の存在を知らず自分が何者かと悩んでいた、そんな乾いた心から喜びが沸き上がりました。そのきっかけは母の夢でした。「おふくろが引き合わせてくれたんや」と思いました。そして中3になる春、おばあちゃんから「兄が大学に合格し、この春に墓参りに帰ってくる」との連絡がありありました。生き別れと思っていたのに実の兄弟に会えることに胸が躍り、前日の夜は抱き合って再会する場面を勝手に思い描き全く眠れませんでした。ところが兄が来たとたん、私は恥ずかしくて下をむいてしまったのです。私に優しく接してくれた兄はとてもかっこよかった。私はろくに話せませんでしたが、それ以来兄との文通が始まりました。「頑張って生きなあかん」いつも励ましてくれました。そのあとついに兄弟全員との再会を果たし、これがきっかけで私の夢は一人前になって大阪に出ることに変りました。大阪に出れば兄たちがいる。それが当時の生きる支えでした。
早く独り立ちするために高校を卒業した後は就職するつもりでしたが、中学時代の恩師にそのことを話すと反対され、私の経済状況を知る先輩からも大学へ進むように勧められました。「そこまで言うのなら」と大学受験に挑戦することを決心して猛勉強がそこから始まったのです。寝る間を惜しみ1日中机にかじり付く日々を1年間続けて何とか関西大学に補欠合格をしました。
大学の叔母の家に居候し大学生活が始まると学費はすべて自分で支払う約束でしたので納期前はいつも焦っていました。今と違って自由にアルバイトを選べるような環境ではありませんでした。梅田にある学生相談所に行き募集を見て応募する。学生が山のように集まっていてその場でじゃんけんをして採用が決まり、車に乗せられて現場に向かう。そんな日々の繰り返しです。交通量調査や市場調査、できることは何でもしました。経済的に苦しくて大学を辞めようと思ったことも何度もありました。その度に叔母は「少しぐらいやったら出してやるから」と励ましてくれ、私にとっては3人目の母のような存在でした。この頃叔母と同じく私を精神的に支えてくれたのが大学で出会った2人の親友でした。彼らとは毎日議題が出され、それをもとに討論する”会計学研究会”で出会いました。よく大阪の街で食事をしながら「将来は一緒に起業しよう」と夢を語り合ったものです。ただ起業するといっても会社を立ち上げる資金もありません。それでそれぞれ就職してお金を貯め、力をつけて5年後に起業する約束になったのです。その約束を胸に大学を卒業してそれぞれ別の会社に就職していきました。
就職先は神戸に本社を置く老舗の自転車メーカーで、業務内容は神戸の自転車屋をまわって自社製品を置いていただくように頼む営業でした。今でもはっきり覚えていますが初任給2万5500円をいただいたときは感無量でした。「“続柄・同居人”に悩んでいた自分がようやく独り立ちできたんだ、俺もここまで来たんだ」という思いがこみ上げてきました。

ここでの仕事はあまりにも順調なもので営業成績トップをとることもありました。そしてあっという間に大学で出会った2人の親友と起業する約束の5年目を迎えたのです。職場の先輩からの慰留や将来性の安定を考えると大変悩みましたが、大学時代からの約束が私の中で勝ち一から会社を立ち上げることになりました。
5年間を別々の会社で勤めた3人が選んだ業種が印刷商事会社です。3人とも印刷事業の知識がありませんでしたので、まずは別々の印刷会社に就職しイロハを学び、同時期に辞めて起業しました。当初は食べていくのも困難な状態で毎朝7時から夜は深夜まで働き続けましたが、その苦労の中にも一体感があり楽しかった。しかし数年経ち事業が軌道に乗り始めたころにある問題が出てきたんです。この会社では友人1人が社長、私ともう1人は専務という立場でした。といっても実際は皆営業マンです。私は前職の自転車会社で上手くいったうぬぼれから、営業では負けない自信を持っていました。業績が安定してくると、私の我が出てきたのです。「一生専務でもいいのか?もしも私が社長なら・・」でもその思いを口には出来なかった。友人同士だからこそ言えなかった。そして胸の内をぶつけることが出来ずにくすぶった思いが積もっていきました。
昭和53年7月そんな状態の私に悲報が届きました。故郷にいる育ての父の死でした。貧しいのに文句も言わず私を引き取ってくれた。大阪に出た時も何度も手紙で励ましてくれた。それなのに私は就職してからの多忙で父のもとにはほとんど帰らず、結局何一つ恩返しできなかった。静かに眠る父の顔を見た瞬間、その悔しさがこみ上げ、声をあげて泣きました。翌年後を追うように育ての母も逝きました。
仕事ではストレスを抱え、育ての親との別れが重なりどん底にいた時に訪ねたのが安倍文殊院です。一緒に起業した友人の姉が先代、隆應住職の奥さんだったのです。しかもご本尊の文殊菩薩様は父の生まれ年の守り本尊。私は何か救いを求めていました。そこで隆應住職からこう言われました。「分をわきまえる。これを考えなあかんのちゃうか」と。自分の“分”、親分子分の“分”、個性と同じように良くも悪くも人には立場がある。どの立場がえらいわけでもなくそれぞれの分の中でどれだけのことが出来るのかが大切だと。
今までに考えたこともなかったことでした。お堂の中で文殊様に手を合わせていると、これまでの人生が思い起こされました。そして文殊様は亡くなった父のように思え、私から雑念や弱さを取り払ってくれる、そんな気がしました。そして住職はこうも言ってくれました。「うちに来てみるか」。
こうして全く考えもしなかった仏道の道に進むこととなったのです。安倍文殊院へ入寺してからも様々なことがありました。掃除にあけくれる日々、寺の魅力を伝えるために奔走する日々、大和十三仏霊場会の発足など。どれをとっても決して1人では何もできなかった。
人生を振り返ってみると入寺以前からもそうだったのです。両親の死、育ての親の死、辛いことが重なった時も周りを見渡せば必ず良い方向に導いてくれる人がいました。こっそり見守ってくれた祖母、人生の目標となった兄や姉、生き抜く力を与えてくれた恩師、平成10年にご遷化なされた先代隆應住職。道を振り向くと多くの縁に気づき、そして感謝が溢れてきます。
駆け足で私の“生きる縁”を紹介させていただきました。私はこれからも過去の縁、新しく生まれる縁に感謝することを忘れることなく歩んでいこうと思います。