〈 前回からの続き 〉
もはや自身で赤ちゃんの世話をすることはかなわなくなったので、子どもは父親のもとで育ててもらうことが最善の方法であると考え、身が裂かれるような思いで婚家に託すことになりました。お腹を痛めて産んだ我が子をこの手で育てられない悲しさ辛さは、経験した人でなければ分からないでしょう。その悲しさを乗り越えて、私が真っ先にしなければならなかったのはリハビリでした。まだ自分の力で立つことも言葉を発することも出来ない状態だったので、いつ果てるとも知れない遠い遠い道のりのように思えました。
最初は舌を動かす五十音の発音からはじめ、ピンポン玉を手で掴む練習、体を曲げる、寝返りをうつ。今まで何も意識することなく出来ていたことが何一つ出来なくなったことは、突如人生が振出しに戻ってしまったよりも辛いことでした。私は子どもを育てる母親なのに、その自分がこのような状態になってしまって。皆に迷惑をかけていると思うと落ち込んでしまう。そんな時には献身的な母の励ましに救われ、自分を奮い立たせることが出来ました。1つのことが出来ると母娘で喜びの涙を流し、出来なければ悔しみの涙を流す、そんな一喜一憂の日々を過ごしました。
1日も早く元の体に戻りたい、そして愛する我が子をこの胸で思いっきり抱きしめたい。そんな思いで毎日過ごし1年半が過ぎたある日のこと、義母が子どもを連れて初めて面会に来てくれました。
母娘の間で暫く時間が止まりました。どのぐらいだったのか、一瞬のような永遠のような。しばらく見ないうちにヨチヨチ歩きが出来る可愛い女の子になっていました。けれども私はベッドに横たわったままじっと見つめるだけ。彼女も同じように私をじっと見つめていました。気が付けば初めての面会は終わり、娘の姿を見送ったあと布団の中で泣きじゃくりました。 そして2年半が経ち、まだまだ病気以前のようには体は動きませんが、待ちに待った退院を迎えました。実家に着いた時、入院時母が言った「あなたさえ良くなってくれたら、それが一番の親孝行よ」という一言を思い出しました。そうです、私が元気でいる事が1番の親孝なのです。それが出来なくて本当にごめんなさい。
退院したとはいえ、まだまだ続くリハビリです。しかしこの頃には私の体と同じく夫婦の間も元に戻ることのない亀裂が生じてしまっていました。結局我が子との再会は病院のベッドの上での対面から7年の月日を要しました。そして病気に見舞われてから15年の歳月が経った頃、離婚を決意しました。それから娘とは手紙で交流をし、時には会いに来てくれます。娘は平成4年に結婚、そして翌年女の子を授かり母になることが出来ました。
思い返せば災難と苦しみは突然やってきました。そして今日までも私はリハビリに励んでいます。長い間つきっきりで私を支えてくれた母。そんな母を支えていたのは父をはじめ兄や妹たちでした。家族が一丸となって私のために祈り、沢山の我慢をしてきてくれました。家族に支えられながら母とともに続けたリハビリのおかげで今では少し手を借りれば歩けるようになりました。言語障害も日常会話に不憫を感じないまでに回復しています。
一時は医者からも見放された私が50年近く生きてこれたのは母の献身的な愛、家族の強い絆のおかげです。父は平成4年に、母も平成22年に亡くなり本当に寂しくなりました。けれども私の中に生きています。これからもずっとずっと生き続ける事でしょう。両親とこの世で会うことは叶いませんが、私には私を支えてくれる兄や妹たちがいます。また心の中にはいつも愛する娘がいます。これ以上の幸せはあるでしょうか。私の一歩は短いかもしれませんが、私は平凡であることが、どれほど幸福な事であるか知っています。そして生かされていることにも。