生駒市は南北にすごく細長い形をしています。それは、縦列3つの町村が合併したからで、3つの餅か団子が縦に重ねられた姿と似ています。一つ一つの餅/団子はそれぞれが歴史も古くて独自の特徴ある歴史を持っていますのでこの街「生駒市」はとても面白いです。
確かに生駒市と境界を接する奈良市や斑鳩町に比べると世界に知られた歴史的遺産はありません。それは昔、奈良市や斑鳩町に権力者や権力機構があり、色々の理由をつけて全国から集めた莫大な税金や上納金から多額のお金を、寺社仏閣に使ったからです。豪壮な建築物や美麗な仏像が多く残っているのもそういう仕組みのせいで、比べること自体意味がありません。 さて、3つ重ねの餅/団子の個々についてお話をします。3つの餅/団子は、明治中頃の村名で言えば、それぞれ北倭村(きたやまとむら)、北生駒村と南生駒村です。北倭村は、古くは興福寺の鷹山荘と鳥見荘であり、北・南生駒村は同じく興福寺の生駒荘が古文書で確認できますが、平安時代末期に相続で1/3と2/3に分けられ、二分方と一分方と呼ばれていましたが、現在でも「壱分」と町名と駅名にその呼名が残っています。
それぞれの村落を特徴付ける人物がいます。それが日本中でよく知られた人であることは、とても不思議なことです。北倭村では、大仏再興をほとんど独力で成し遂げた公慶(こうけい)上人でしょう。北生駒村の地域では、役行者開山の寺を中興し宝山寺を開いた、湛海(たんかい)律師であり、南生駒村では、現在の竹林寺に墓をつくるよう遺言した行基(ぎょうき)菩薩がその代表的人物です。
公慶上人は、鷹山荘で僧兵の頭領として応仁の乱前後から頭角を現した鷹山氏一族です。上人の父は鷹山氏最後の当主ですが、その時代には大名(丹後宮津の京極家)に仕える身分でした。途中で京極家を辞して生駒に戻っています。
公慶上人は宮津生まれとされますが、生駒誕生説の学者もいて、私はそれを正しいと思っています。13歳で出家して東大寺で修行し、雨ざらしの大仏を拝んだ時に復旧を決心します。1567年の三好・松永の戦いで大仏殿は焼け、仏像は溶けて台座だけ残る無残な状態でしたが、復旧に着手した大和山田城主も胴体の修復完了時点で資金が尽き、頭部は木組みで表面を銅版で覆ったもので断念しました。公慶上人が拝んだ頃は、頭部の銅板も一部剥がれて侘しいお姿だったようです。
公慶上人が幕府許可を得て再建の勧進(寄付を募る)を始めたのが1684年ですが、翌年、鷹山家と縁の深い法楽寺(生駒市高山町)で大仏修復成就の祈願をしています。上人がほとんど独力で多数の人から少額のお金(現在の100円位)を集め現在の10億円で頭部を鋳造復旧し開眼法要したのが、1692年です。
建物は現在の100億以上の費用がかかると推され、勧進だけではとても無理で、徳川幕府の全面負担でなんとか完成しますが、完成した大仏殿の落慶法要(1709年)を見ることなく公慶上人は、その4年前に亡くなっています。日々勧進して復旧成就まで横になって寝ない等の無理がたたっての58歳での死でした。
宝山寺中興開祖の湛海律師は伊勢一色村(現三重県津市)の生まれで、少年時代から賢く親類縁者がその才を惜しんで仏門入りを許さない中で、密かに18歳で出家し江戸深川の永大寺で修行を積みます。永大寺の師から可愛がられ京都に儒学を学ぶため3年間留学し、江戸で師の同輩僧侶から真言密教を叩き込まれた後、その実地修行に高野山行きを命じられ2年間修業をします。