はじめまして。私は昨年宮城県七ヶ浜町で行われたAKARIプロジェクトのメンバーです。
東日本大震災被災地における追悼行事として、スカイランタンを空に上げる事。それで少しでも被災者の心を明るく照らせたらという思いで生まれたこのプロジェクトの活動を通じて、私は宥亮さんとお会いしました。
 私は宮城県の多賀城市という海にも川にも近いのどかな場所の出身です。自衛官一家だった我が家で、4年前の当時。私も自衛官として務めておりました。 3月11日。大きな揺れと地鳴りと共に航空機の滑走路が大きく波打ち、コンクリートがひび割れる。大型航空機を格納する格納庫の扉が、いまにも倒れ落ちそうな物騒な音を立てて揺さぶられていたのを覚えています。
 あの日、揺れを体感された方。ラジオで、テレビで、インターネットを通じて現実とは思えない光景を、音や映像で、それぞれに目撃された方も多いかと思います。手を差し伸べる事も救い出す事も出来ない。土色の濁った波を追うように切り替わる画面のなか、消えいく町や命あるものの姿を今でも夢に見ます。情けない話ではあるのですが、未だに揺れを感じれば真夜中でも飛び起きるほど、揺れに反応してしまうのです。
 雪の降る、光も熱も無い暗い場所で、寒さをもはや痛みとして感じるほどの身を切るような空気の中で身を寄せ合う人々が居た事をご存知の方も多いかと思います。その中には私の大切な友人も多くいました。家族親類友人。誰が無事でどこに居るのかも知れないままに自衛官としての救助活動は続く、そんな頃。学生時代からの友人が亡くなったとの報せが入りました。無論自衛官であった私が任務を放り投げて葬儀に参加なぞ出来ようはずも無く、別れの言葉さえ掛けられないという、想像した事の無い哀しい別れでした。それでも泣く暇もなく只管に救援任務に従事する毎日でした。それしか、出来なかったとも言えます。
 震災復興支援をしていた自衛隊が撤退してしばらくした後、私は自衛隊を辞しました。学生時代からの友人との約束でもあった「海外で働こう」という夢を叶える為に。それは、彼女の葬儀にも行けず、別れの言葉も掛けられなかった私なりのけじめでもあったのです。
 海を渡ったその先で、沢山の人に出会いました。私が日本人であると知ると、震災について深く理解してくださっていたのでしょう。とても優しい言葉をかけては悲しみを分かち合おうとして下さいました。ニュージーランドやアメリカでの自然災害に遭われた方、ボランティアとして被災地を訪れた方、神に祈りを捧げて下さった方。思いを分かち合う人々には、国も年齢も人種も宗教もありませんでした。ただ、傷ついた人の為に悲しみ、理解してくれる。人の「想い」の温かさや深さを肌で感じる事の出来た出会いばかりでした。
だからこそ、思ったのです。
彼女の為に何かしたい。大切な人の為に、ふるさとの為に私も何かをしたいと。
きっかけは親友との会話の中にありました。
「もう会えないけれど、彼女の為に何かしたい。綺麗なものがいい。そう、ちょうどラプンツェルのような、ランタンみたいなのなんて、素敵かもしれない」 その言葉は、亡き友の元気な姿を空に描いたような、希望の詰まった夢物語のようなものでした。
しかし、帰国した私は、夢物語を現実に変える転機に出会いました。
 帰国した私が習い始めたパソコンの講師である髙橋先生との出会いこそが私の転機でした。
お話をさせて頂くうちに何故自衛官を辞してまで渡米したのかになり、そこで友人との会話でも出たラプンツェルのランタンの事を話したのです。
こうして慰霊と追悼の為のAKARIプロジェクトは誕生しました。丁度年も暮れの頃でした。