「世界に類無き美しさ」―
日本をこよなく愛する日本文学研究者のドナルド・キーン氏が、伊勢神宮の式年遷宮で、ご神体が夜にお遷りになられる様子をこのように新聞のコラムで表現していました。91歳の彼が、20年に一度の伊勢のご遷宮を奉拝するのはなんと60年前の第1回に始まり、40年前、20年前、そして今年で4回目だそうで、日本人ですらなしえない記録でしょう。
 キーン氏が類無き美しさと語るのは、その神聖さと、神様を見送る人々が順にかしわ手を打つ音の波。
 神様のお遷りについては、私も春日大社のおん祭りにおいて、息をのんで見つめるほどの特別で神聖な空気感を感じております。それは見えない美しさです。そして、日本の神社やお寺のたたずまい自体に、海外のお寺などとは比べ物にならない、日本ならではの美があると思います。釘1本使わない木組みの木造建築や神社の鳥居や、そういったものもそうですが、たたずまい全体が整然としていて、それはほっておいて作られるものではなく、毎日手を入れ、形を整えてこそ醸し出すものであり、そこを守る方々のお人柄が偲ばれるものです。
 その美しさは、大きな観光寺院は然りですが、むしろ小さなお寺などに感じることが多いです。私は月刊誌「yomiっこ」で、奈良県内の様々なお寺におじゃましておりますが、一人でがんばってお寺を守っておられる方は結構多いようです。特に若い僧侶が一つのお寺をまかされ、一生懸命に整えようとする姿には感動します。中には一人でお堂をリフォームしようとしている人、重機を借りてきて一人で庭を作ろうとしている人までいます。お寺の境内を毎日掃除するだけで大変で、掃除だけで一日が終わってしまうという人もいます。
 宗教では神道も仏教も「浄める」ということが大切なようです。不浄のところに神様も仏様もお住まいにはなられないといいます。トイレも然りで、美しく清めてこそトイレの神様が降りて来られる、ゆえに、掃除は仏教では修行の一つになっている宗派も多いようです。禅宗は、浄不浄に関わらず、たとえ落葉一つ落ちていなくても掃き清めることが行だといいます。そうすることで身の回りが浄化されるとともに、自分の心も浄化され、真理の世界をも洗い浄めるのだと。
 以前、私が小学校を卒業した直後、大好きだった小学校と校長先生への御礼として何かをしたくて、春休みに友達と2人で、20個ぐらい並んでいたトイレの掃除をしました。昔のトイレですべて和式、もちろん水洗ではなく古くて臭いトイレで大変でしたが、全部やり終えた後は充実感と達成感でうれしくて、あんな汚いトイレをよく全部掃除したよねと、自分で自分を誇らしく思え、自信につながりました。その時、これは誰かのためというより、自分のためだったのではないだろうかと感じたことを覚えています。
 私は仕事以外にもずっとボランティアとしてまちづくり活動をさせていただいておりますが、ボランティアとはまさにそういうことだと常々思います。誰かのために、町のためにと思ってやっていることは、実は自分のために、やっているのだと。「浄める」ということは単にきれいにするだけではなく、心を磨くということだと思います。ボランティアは自分の心を磨かせてもらっている。それで人様のお役に立てられたらこんな幸せなことはないです。これからも前向きに精進していきたいと思っています。