清荒神清澄寺の山門をくぐり目に飛び込む一願地蔵尊の脇道を進むと、緑の木々に囲まれた自然の中にたたずむ鉄斎美術館、「聖光殿」があらわれます。第37世法主光浄和上は当時、名物と言えば歌劇しかなかった宝塚に宗教と芸術文化の花を咲かせる理想の聖域を創造したいという、心ひそかな念願を持っておりました。そんな中、我が国最後の文人画家と称される画聖富岡鉄斎の作品に流れる深い宗教心と豊かな芸術的香気に心打たれた和上は、作品収集と研究にその生涯を捧げました。晩年には親交を結び、『聖者舟遊図(せいじゃしゅうゆうず)』などに代表される傑作を数点、直接書いていただけることとなりました。第38世光聰和上がその遺業を継承し鉄斎研究所を創立。また宗教と美術を結ぶ架け橋として、この聖光殿を建設いたしました。私は先の大徳の謦咳に接することのできた望外の幸せを感じながら、現在鉄斎美術館館長としてその志を踏襲しております。宥亮師は当代39世光謙和上のもと平成16年から19年の3年間従者として仕え、厳しい修行に耐え抜き法務を全うして下さいました。この度寺子屋新聞のお話をいただき、当山法主が3代にわたり広く鉄斎芸術の顕彰を責務とする意に則り僭越ながら筆を執った次第であります。
富岡鉄斎は天保7年(1837)に生を受け幕末動乱のなか青年時代を送り、明治、大正時代を生き抜き、同13年(1924)に89年の生涯に幕を閉じた人物であります。彼は幼い頃の病がもとで、耳が不自由でしたが読書をこよなく愛し、儒学や漢学、国学に精通し30代で自ら私塾を開くまでに至っています。さらに書を読む傍ら書画に励み、当時名を馳せる画壇の巨匠より手ほどきを受け40歳の頃には奉職した神社の復興のため絵筆を取り、浄財を集めるまでになりました。中国明代の文人、董其昌(とうきしょう)の言葉「万巻の書を読み、万里の路を往くをもって画祖となす」という言葉を座右の銘とし、一生涯学問に励み賢人の足跡を追って旅を続け、書画の制作に打ち込みました。また彼は自らのことを「私は絵かきではない、儒者である」と述べ、「私は無意味な画は描いていない。画を観るならまず賛を読んでくれ」と言い続け、画中に書き添えた文章の重要性を説いています。
そうして学問と芸術の一体化を目指した鉄斎芸術の特色を表す言葉として「書画一味」がありますが、これは彼の作品の「書」と「画」、いずれも離れることなく消しあうことなく両者が調和し一体化している美を表す言葉であります。
さて、清荒神清澄寺所蔵の鉄斎作品は、絵画・書をはじめ鉄斎が絵付を施した器物や陶器、遺愛品等多岐にわたり、その数約1200点にも及びます。この度はその中でも晩年の傑作とされる『聖者舟遊図(せいじゃしゅうゆうず)』について紹介をいたします。先にも紹介した通り当山に揮毫(きごう)いただいた最晩年89歳の名品であります。
賛には「釈迦(しゃか)・観音(かんのん)・孔子・老子一船。此の中、達磨(だるま)かじを取るの図。人参甘(にんじんかん)草(ぞう)。白朮(びゃくじゅつ)陳皮(ちんぴ)。中に毒薬少林(しょうりん)の一枝有り。漆(しっ)桶(つう)万里(ばんり)居士の賛。鉄斎老人九十画(えが)く」とあります。大意は「釈迦、観音、孔子、老子が1つの舟に乗り、この中に達磨が舵を取っている図であり、諸聖が苦海に沈む衆生を救うため1つの船に同乗して出かけられるが、諸聖の教えは衆生の病に応じて与える人参・甘草・白朮・陳皮のような薬である。少林寺に面壁9年の修行をされた達磨大師の禅道は、苦い薬ではなはだ辛辣(しんらつ)だが効き目がある。」であります。これだけでは甚だ難文ではありますが、あえて作品に対して余剰な解説は略しました。
まだまだ語りつくせぬことばかりではありますが、清荒神清澄寺は当代和上を中心とし、参詣される多くの方々の心に平和と安らぎを与えんがため日々努力を続けています。ご来山の際には美術館に於いて鉄斎芸術の神髄にふれ、その醍醐味を満喫していただければと願っております。